『以心伝心』(いしんでんしん)。 禅宗で悟りの極意を伝える言葉。言葉や文字を使わないで悟(さと)りの内容をそのまゝ 他人に伝えること。一般には、思うこと、心から心に伝える場合にも用いる。

『以信代慧』(いしんだいえ)。 信を以て(智)慧に代える。人が救われるためには必ずしも哲学的理解を必要とせず、堅固(けんご)な信仰さえあればよいという意味で、日蓮聖人の教え。

『以信得入』(いしんとくにゅう) 。(仏)を信じてのみ進入する、信によって 仏の世界に入ることができる、の意味。法華経譬喩品(ひゆほん)の言葉。

『一期一会』(いちごいちえ)。 一期(いちご)とは一生涯のこと。今めぐり合ったのは、あくまでも今日この時かぎりのものであって、望(のぞ)んでも生涯二度と合えないかもしれないとの意味。

『一乗』(いちじょう) 。一つの乗り物。一仏乗(いちぶつじょう)ともいう。仏の教え(経典)はいろいろ説かれているが、実は唯一(ゆいいつ)の真実の教えがあるのみだと主張する説で、それによっていかなる衆生も仏になれると説く。特に「法華経」で強調(きょうちょう)される。

『一乗妙典』(いちじょうみょうてん)。一乗の教えを説いた勝れた経典のことで、法華経をいう。

『一念三千』(いちねんさんぜん)。 人間の一念(ちょっと思うこと)の中に三千ののあり方(世界)を含んでいることをいう。我々が日常起(お)こしつゝあるかすかな心に、三千で現される宇宙の一切のすがたが完全に具(そな)わっているということ。「三千」とは、 {十界(じっかい)×十界=百界(ひゃっかい)}×{十如是(じゅうにょぜ)}×{三世間(さんせけん)}のことである。十界とは、心の持ち方の善悪とか、迷悟(めいご)の程度(ていど)によって、人間を十種類に分類したのをいう。

@地獄界(じごくかい)悪いことばかりして、苦しみもだえる最低(さいてい)最悪の世界。殺人や戦争などの悲惨(ひさん)な現場は、まさに地獄絵図である。

A餓鬼界(がきかい)むさぼりの世界。たんに食べ物だけを求める人だけではなく、金・物質・出世・名誉・権力などばかりを追い求める人の世界。

B畜生界(ちくしょうかい) 獣にたとえられる世界。人間らしい感情や知性(ちせい)もなく、善悪の見分けのつかない、本能だけで行動する人の世界。

以上の三つは、善と認めるところがないから三悪道(さんあくどう)という。

C修羅界(しゅらかい)闘争(とうそう)の世界。正当な争いではなく、自分のエゴからでた争いをする人の世界。他人の足を引っ張って自分だけ前へ出ようとする人、身勝手(みがって)な正当性(せいとうせい)を叫(さけ)んで他国へ侵入(しんにゅう)する戦争もこれに入る。

D人間界(にんげんかい)人並(ひとな)みの人間のこと。あまり悪いこともしないが、特別善いこともしない。少なくとも地獄・餓鬼(がき)・畜生(ちしょう)・修羅界(しゅらかい)でない状態の人。

E天上界(てんじょうかい)財力(ざいりょく)や名声(めいせい)や権力 (けんりょく)を握(にぎ)った人や、それらの子供に生まれた人の世界。快楽(かいらく)の世界である。しかし、成功者(せいこうしゃ)は時として人を馬鹿にしたり、傲慢(ごうまん)になったりして、他人から疎(うと)んじられることがある。没落(ぼつらく)する可能性もあり、その地位は不安定なものである。

これらの三つは、多少(たしょう)とも善(ぜん)の気持が認(みと)められるので三善道(さんぜんどう)といわれる。しかし@からEまでを六道輪廻(ろくどうりんね)といって、何回(なんかい)生まれ変ってもこの六つの世界をぐるぐる回(まわ)るだけだと説かれている。

 この六つは迷(まよ)いの世界であるから六凡(ろくぼん)ともいう。

F声聞界(しょうもんかい)六道を一歩ぬけ出した状態。金や欲望や争いや成功などの俗(ぞく)っぽいものゝ他に、もっと価値(かち)のある何かがあるのではないかと感じはじめた境地(きょうち)の人。

声聞(しょうもん)とは、原始(げんし)仏教では出家(しゅっけ)でも在家(ざいけ)でも、教えを聞く人の意味で、仏弟子(ぶつでし)のことである。

G縁覚界(えんがくかい)一人で悟(さと)りを開いた人のことであるが、その悟りを人に説こうとせず、自分の救済(きゅうさい)だけを考える自己満足(じこまんぞく)の人のことである。

H菩薩界(ぼさつかい)自分が修行(しゅぎょう)するだけでなく、まず他人を迷(まよ)いから目覚(めざ)めさせるために全力(ぜんりょく)をつくし、それから自分が渡(わた)ろうとする慈愛(じあい)にみちた求道者(ぐどうしゃ)をいう。在家でも他人の幸福のために全力投球(ぜんりょくとうきゅう)する人は、菩薩精神(ぼさつせいしん)の持(も)ち主(ぬ)といえよう。

I仏界(ぶっかい)仏教で説かれる理想の境地。最高の精神段階(だんかい)に達した人格者(じんかくしゃ)。人間だれでも仏界(ぶっかい)にまで達(たっ)する能力を持っている。それを仏性 (ぶっしょう)という。普通の人はその努力をしないし、そのための方法をしらないだけである。西洋の神との根本的(こんぽんてき)な違(ちが)いはこにある。

FからIまでを四聖(ししょう)、あるいは二乗{声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)}・菩薩(ぼさつ)・仏(ぶつ)とわけたりする。

次に十界互具(じっかいごぐ)であるが、十界は固定的(こていてき)なものではなく、一界(いっかい)のそれぞれに他(た)の九界(きゅうかい)の性質(せいしつ)も含(ふく)んでいることをいう。

すなわち普段(ふだん)地獄界の人だと思っていても、自分の子供に対(たい)してだけは仏のように慈愛(じあい)に満(み)ちた父親であったりする。また一生は勿論(もちろん)のこと、一日の中でも各界(かくかい)をぐるぐる回(まわ)ることもある。仏であっても、仏になるまでは各界(かくかい)を遍歴(へんれき)してきたのであり、各界のことを知りつくしている。各界のことを知らなければ教化(きょうけ)活動をすることはできない。しかし仏は他の界に惑(まど)わされることはない。このようにどの界にも他の九界を含んでいるから、十界(じっかい)×十界で百界(ひゃっかい)となり、これを十界互具(じっかいごぐ)という。

次に十如是(じゅうにょぜ)とは略(りゃく)して十如(じゅうにょ)ともいう。「ただ仏と仏とのみ、いまし能(よ)く諸法実相(しょほうじっそう)を究(きわ)め尽(つ)くしたまえり。いわゆる諸法(しょほう)とは如是相(にょぜそう)、如是性(にょぜしょう)、如是体(にょぜたい)、如是力(にょぜりき)、如是作(にょぜさ)、如是因(にょぜいん)、如是縁(にょぜえん)、如是果(にょぜか)、如是報(にょぜほう)、如是本末究境等(にょぜほんまつくきょうとう)なり」のことである。 すべてのものが十のしかたで存在し、生(しょう)ずることをいう。

「諸法実相(しょほうじっそう)」にはいろいろな解釈があるが、「もろもろの存在するもの(諸法)は、そのまゝにして(真)実のすがた(相)なり。」と解釈すべきであろう。「如是(にょぜ)」とは、「かくの如(ごと)く」の意味であるが、「あらゆる存在のそのままの{相(すがた)、性(せいしつ)}」ということである。

@「相(そう)」とは外見(がいけん)、A「性(しょう)」とは性質、特質(とくしつ)のこと。B「体(たい)」とは人間のからだの総体(そうたい)・本体のこと。C「力(りき)」とは能力。D「作(さ)」とは作用。「力」を外に向かって実行することをいう。E「因(いん)」とは「性(しょう)」とほとんど同じものであるが、人間の行動を起こす原因となるものゝことである。人間は生まれながらに していろんな性格を受けついできている。生後(せいご)、成長の過程(かてい)で環境や教育などの影響で、先天的(せんてんてき)な性格が少しずつ変化していく。この経験による習慣性(しゅうかんせい)が、それ以後の人間の行いを方向(ほうこう)ずける原因となるので、これを習因(しゅういん)という。因(いん)とは習因(しゅういん)のことである。

F「縁(えん)」とは条件のこと。すなわち因(いん)が具体的(ぐたいてき)に行動を起こすためにはいろいろな条件が必要である。

G「果(か)」とは結果のこと。習慣性としての心の傾向(けいこう)が原因(習因)で行動する結果のことで、習果(しゅうか)という。

H「報(ほう)」とは報(むく)いのことで、果報(かほう)の意味である。報(ほう)とは、この世の善悪の業(ごう)による来世(らいせ)に受ける報(むく)いのことであるが、この世の報(むく)いと論(ろん)じても差(さ)し支(つか)えない。

I「本末究竟等(ほんまつくきょうとう)」とは、まず「本(ほん)」は「相(そう)」、「末(まつ)」は「報(ほう)」のことで、この本(ほん)と末(まつ)、すなわち相(そう)と報(ほう)とは結局において一致(いっち)することをいう。

{十界互具(じっかいごぐ)の百界(ひゃっかい)}×{十如是(じゅうにょぜ)}で「千」となる。十界互具なるがゆえに、人は他の界(かい)の人々に同情(どうじょう)したり、共感(きょうかん)できるのである。

十如是(じゅうにょぜ)は、自分がなぜ今の世界(十界の一つ)になったのかという説明である。それは偶然(ぐうぜん)などが原因ではなく、自分自身の行動の結果であることを説(と)くものである。

それは他人のせいではなく、あくまでも自分の責任である。これを一如平等(いちにょびょうどう)という。また十如是(じゅうにょぜ)は我々凡人(ぼんじん)が仏の世界へ向かうことができる根拠(こんきょ)を示しており、よい縁(えん)に恵(めぐ)まれて仏に近ずくための習因(しゅういん)・習果(しゅうか)に努力すれば可能なことをも説いているのである。次に三世間(さんせけん)であるが、@五蘊世間(ごうんせけん)とは、色(しき)、受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)の五つがあつまって{蘊(うん)}造(つく)る世間(せけん)のことで、色(しき)とは形ある物質一般(ぶっしついっぱん)、あるいは身体。受(じゅ)は感受作用(かんじゅさよう)のことで、感覚(かんかく)、単純感情(たんじゅんかんじょう)をいう。

想(そう)は心に浮(う)かぶ像(ぞう)で、表象(ひょうしょう)作用のこと。行(ぎょう)は意志あるいは衝動的欲求(しょうどうてきよっきゅう)に当(あ)たるべき心の作用のこと。識(しき)は認識(にんしき)・識別(しきべつ)作用のこと。また意識そのものをいう。

色(しき)は身体であり、受(じゅ)以下は心に関(かん)するもので、合わせて身心(しんしん)のこと。また、他に対する自分のこと。

A衆生世間(しゅじょうせけん)。人間は勿論(もちろん)のこと動物や植物など、生けとし生けるものゝ世界のこと。

B国土世間(こくどせけん)。器世間(うつわ)ともいう。山河や環境の世界のこと。

この三世間(さんせけん)に前の千が複雑に絡(から)み合うから三千となる。また天台(てんだい)の一念三千(いちねんさんぜん)は、現実世界は迷(まよ)いの世界と見て、修行(しゅぎょう)して仏となつて始(はじ)めて三千円融(さんぜんえんゆう)していると悟(さと)る迹門的(しゃくもんてき)な観念(かんねん)・理論(りろん)としてとらえるから「理(り)の一念三千(いちねんさんぜん)」という。

日蓮(にちれん)は本門(ほんもん)の立場で論(ろん)ずる。すなわち久遠実成(くおんじつじょう)の本仏(ほんぶつ)の目から見れば、娑婆即寂光(しゃばそくじゃっこう)であり、この世は仏の常住(じょうじゅう)する理想的な永遠の世界であると説くのである。いわゆる本覚思想(ほんがくしそう)にもとずく「事(じ)の一念三千(いちねんさんぜん)」とはこのことである。また、これが即身成仏(そくしんじょうぶつ)の論拠(ろんきょ)でもある。天台(てんだい)の始覚門(しかくもん)との違(ちが)いはこゝにある。

『一姫二太郎』(いちひめにたろう)。 最初の子は育(そだ)てやすい 女の子、第二子(だいにし)に男の子が理想だということ。第一子(だいいっし)に男の子を望(のぞ)んでいたのに女の子が生まれた時の慰(なぐさ)めの言葉にも使われる。

『因果応報』 (いんがおうほう)。すべてのものを因果(いんが)の法則が支配し、善因(ぜんいん)には善果(ぜんか)、悪因(あくいん)には悪果(あっか)が必ずあるということ。

『因縁』 (いんねん)
@原因(げんいん)。
A因(いん)と縁(えん)。因は結果を招(まね)く直接の原因。縁は因を助けて結果を生ぜしめる間接の原因(条件)。
B機会(きかい)。機縁(きえん)。
Cわけ。理由。
D縁起(えんぎ)と同じ。
E事(こと)の由来(ゆらい)。