ま〜よ

『末法』(まっぽう)。仏法(ぶっぽう)の流布(るふ)する時期を、正(しょう)・像(ぞう)・末(まつ)の三つに分けた中の一つ。
@正法(しょうぼう)。ブッダ滅後(めつご)、一千年(あるいは五百年)の間は、教えが正しく世に行なわれる期間のこと。
A像法(ぞうぼう)。正法(しょうぼう)から更(さら)に千年(あるいは五百年)の間のことで、正法(しょうぼう)に似(に)た法が世に行こなわれると考えて、像法(ぞうぼう)という。教えと修行はあるが、さとりを>開く者のいない時代のこと。
B末法(まっぽう)。像法(ぞうぼう)のあとの一万年をいう。末法(まっぽう)では、仏教はその教えのみがあって、それを実践(じっせん)する行(ぎょう)も、さとりの証(あか)しがない時代のこと。また末法(まっぽう)には仏法(ぶっぽう)が滅(めっ)して救いがたい世となるという。尚(なお)、在家(ざいけ)の人で、末法(まっぽう)のことを世紀末(せいきまつ)と誤解(ごかい)している人がいるので、注意が必要である。

『卍』(まんじ)。仏の胸、手、足、頭髪(とうはつ)に現(あらわ)れた吉祥(きっしょう)の印(いん)の表象(ひょうしょう)。仏心(ぶっしん)の印(しるし)としても用(もち)い、日本では広く仏教、寺院の記号(きごう)・紋章(もんしょう)としても用(もち)いる。ナチスの逆(さか)さまんじとは、形も意味も全(まった)く違(ちが)う。

『三日坊主』(みっかぼうず)。出家して僧門(そうもん)に入ったものゝ、戒律(かいりつ)の厳(きび)しさに耐(た)えられずに僅(わず)か三日で還俗(げんぞく)してしまうことで、物事に飽(あ)きやすく、長続きしない人のたとえ。

『未来仏』(みらいぶつ)。未来に現(あらわ)れる仏。特に弥勒菩薩(みろくぼさつ)は、いま兜率天(とそつてん)にのぼって待機中(たいきちゅう)であり、五十六億七千万年の後に、この世(よ)に降下(こうか)して人々を救うという。

『村八分』(むらはちぶ)。江戸時代以降(いこう)、村民(そんみん)に規約違反(きやくいはん)などの行為があった時、全村(ぜんそん)が申(もう)し合わせにより、その家との交際や取引などで仲間(なかま)はずれにすることをいう。八分(はちぶ)とは、ほとんどのことで仲間はずれにすることをいうが、例外的(れいがいてき)に二分(にぶ)だけは手伝(てっだ)ってやろうということ。その二分(にぶ)とは、葬式(そうしき)と火事(かじ)のことをいう。八分(はちぶ)とは葬式と火事以外(いがい)のことである。

『冥土』(めいど)。「冥途」とも書く。死後の世界(冥界)への道。亡者(もうじゃ)のさまよいいく所。黄泉(こうせん)ともいう。

『欲望』(よくぼう)。欲(ほ)しいと望(のぞ)むことであるが、欲望は三種に大別(たいべつ)される。
@欲愛(よくあい)。渇愛(かつあい)、愛欲(あいよく)であり煩悩(ぼんのう)のこと。
A有愛(うあい)。生(せい)に対する妄執(もうしつ)のことで、死にたくないという欲望(よくぼう)であり、また死後(しご)に何らかの形で生存(せいぞん)し続けたいという欲望のことである。
B無有愛(むうあい)。死にたいという欲望であると同時に、死んだ後(あと)は何も残(のこ)らない絶対的(ぜったいてき)な無(む)へのあこがれである。 現実の苦から逃(のが)れる最後の救済の道として死を選(えら)ぶ人は少なくない。