に〜ね

『日蓮』(にちれん)
承久(じょうきゅう)四年(1222)小湊(こみなと)に生まれる。父は貫名重忠(ぬきなしげただ)、母は梅菊(うめぎく)。
天福(てんぷく)元年(1233)、12才で清澄山(せいちょうざん)清澄寺(せいちょうじ)に登(のぼ)る。
嘉禎(かてい)三年(1237)、16才で道善房(どうぜんぼう)を師として得度(とくど)。是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)と名のる。
歴仁(りゃくにん)元年(1238)、17才、鎌倉(かまくら)遊学(ゆうがく)。四年留(とど)まる。
仁治(にんじ)三年(1242)、21才、比叡山(ひえいざん)に遊学(ゆうがく)。十一年研鑽(けんさん)。
建長(けんちょう)五年(1253)、四月二十八日、清澄山(きよすみやま)にて南無妙法蓮華経を高唱(こうしょう)し、名を日蓮(にちれん)と改(あらた)め、同年鎌倉松葉ケ谷(まつばがやつ)に小庵(しょうあん)を結(むす)ぶ。
建長六年(1254)辻説法(つじせっぽう)開始。
文応(ぶんおう)元年(1260)、立正安国論(りっしょうあんこくろん)を著(あらわ)し、宿屋光則(やどやみつのり)を通(つう)じて七月十六日北条時頼(ほうじょうときより)に提出(ていしゅつ)。八月二十七日、松葉ケ谷(まつばがやつ)草庵(そうあん)焼打(やきう)ちされる。
弘長(こうちょう)元年(1261)再び鎌倉松葉ケ谷に帰り、辻説法再開。五月十二日、執権(しっけん)北条長時(ほうじょうながとき)は聖人(しょうにん)を逮捕(たいほ)、伊豆(いず)の伊東(いとう)へ流罪(るざい)せしめた。
弘長(こうちょう)三年(1263)、二月、配所(はいしょ)にとどまること一年七ケ月、幕府(ばくふ)の赦免(しゃめん)により鎌倉に帰る。
文永(ぶんえい)元年(1264)八月、十二年ぶりに房州(ぼうしゅう)へ帰り、父の墓に詣(もう)で、母や旧師(きゅうし)道善房(どうぜかぼう)を訪(たず)ねる。同年十一月十一日、小松原(こまつばら)にて地頭(じとう)、東条景信(とうじょうかげのぶ)らに襲(おそ)われ、弟子(でし)の鏡忍(きょうにん)は戦死、二人は深傷(ふかきず)を負(お)う。聖人(しょうにん)も景信(かげのぶ)の凶刃(きょうじん)に額に傷(きず)を負(お)うも、危(あや)うく難(なん)を逃(のが)れた。
文永(ぶんえい)五年(1268)、蒙古(もうこ)の国書(こくしょ)を機(き)に、執権(しっけん)北条時宗(ほうじょうときむね)らに直諌状(ちょくかんじょう)を送る。
文永八年(1271)、九月十二日、松葉ケ谷にて聖人再度逮捕(たいほ)される。片瀬竜の口(かたせたつのくち)の刑場(けいじょう)で首(くび)切られんとするも、奇跡的(きせきてき)に処刑(しょけい)は中止され、佐渡(さど)へ流されることになる。同年十月二十八日、佐渡に上陸、塚原(つかはら)の三昧堂(さんまいどう)に入る。佐渡にて開目抄(かいもくしょう)、観心本尊鈔(かんじんほんぞんしょう)を著(あらわ)す。
文永(ぶんえい)十年(1273)、七月八日、一の谷(いちのたに)で大曼荼羅(だいまんだら)を初めて図顕(ずけん)。同十一年(1274)、赦免(しゃめん)され、三月二十六日鎌倉に帰る。止(とど)まること五十日たらずで鎌倉を去(さ)り、甲州(こしゅう)身延(みのぶ)に隠棲(いんせい)。
弘安(こうあん)五年(1282)九月八日、常陸(ひたち)の湯(ゆ)に入って、病(やまい)を癒(いや)すために、約九年間を過(す)ごした身延(みのぶ)をあとにする。同月十八日、池上宗仲(いけがみむねなか)の館(やかた)に到着。こゝで病状が 悪化(あっか)、十月十三日、辰の刻(たつのこく・現在の午前八時頃)、遷化(せんげ)。聖人(しょうにん)、61才。

『女人成仏』(にょにんじょうぶつ)。インドでは、古くは女性の地位を低くみて、仏などにはなれない障害(しょうがい)があるとされ、また浄土には女性はいないとされていた。しかし、すべての者が成仏できると説く大乗仏教の教えと矛盾(むじゅん)するので、身を男に変えてこれを解決しようとしたことをいう。「法華経提婆達多品」(だいばだったほん)には、竜王(りゅうおう)の娘が文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の導(みちび)きによって男身(だんしん)となり、南方(なんぽう)世界で成仏(じょうぶつ)したと説かれる。これを竜女成仏(りゅうにょじょうぶつ)ともいう。

『涅槃』(ねはん)
@迷いの火を吹き消すこと。
A煩悩(ぼんのう)の束縛(そくばく)を脱(だっ)し迷界(めいかい)に再生(さいせい)する業因(ごういん)を滅(めっ)した境地(きょうち)。
Bブッダが一切の煩悩(ぼんのう)を脱(だっ)して死んだこと。
C死ぬこと。