『梁上の君子』(りょうじょうのくんし)。天井(てんじょう)の上に横に渡してある梁(はり)の上にいる君子のことで、泥棒(どろぼう)、盗賊(とうぞく)のこと。転(てん)じて鼠(ねずみ)のこと。後漢(ごかん)の陳寔(ちんしょく)が、梁(はり)の上に泥棒(どろぼう)がひそんでいるのを知って、子供達を起こして「人は自(みずから)ら努力しなければいけない。悪い人でも始(はじめ)から悪かったのではなく、悪い習慣(しゅうかん)が身(み)に付(つ)いてしまったゝめに悪人となったのである。よい習慣を身に付(つ)けないと、あの梁(はり)の上の君子(くんし)のようになる」と諭(さと)したところ、泥棒は大いに驚いて陳寔(ちんしょく)に謝罪(しゃざい)した、という故事(こじ)による。

『輪廻』(りんね)。流転(るてん)ともいう。原意(げんい)は流れること。生(せい)ある者が生死(せいし)を繰(く)り返すことをいう。衆生(しゅじょう)が迷(まよ)いの世界に生まれ変わり、死に変わりして車輪(しゃりん)のめぐるようにとどまることのないこと。
輪廻思想(りんねしそう)はインド独特(どくとく)の古来(こらい)からのものと思われているが、古代(こだい)ギリシャにも輪廻(りんね)思想はあった。ピタゴラスの逸話(いつわ)がある。街頭(がいとう)を歩いていたピタゴラスが、一匹(いっぴき)の犬が打たれるのを見て「打つのはやめてくれ、それは昔の友人の魂(たましい)だ。私には声でわかるのだ」と語(かた)ったという。
またプラトンは「知ることは、要(よう)するに思い出すことだ」といっている。人の肉体に閉(と)じ込(こ)められている〔魂〕(たましい)が最(もっと)も貴重(きちょう)なもので、この〔魂〕(タマシイ)が輪廻(りんね)すると考えたのである。「われわれの魂(たましい)がはたして多くの人たちのいうように、肉体から離れるとたちまち、吹(ふ)き飛(と)ばされ、亡(ほろ)びてしまうのであろうか。そんなことは絶対にない。」(ソクラテス「パイドン」『世界の名著』(めいちょ・プラトン)。
一方(いっぽう)仏教の円覚経(えんがくきょう)には、肉体が分解(ぶんかい)すれば霊魂(れいこん)や心も消える、として死後の世界を完全に否定している経典(きょうてん)もある。しかし、大多数(だいたすう)の経典では、地獄(じごく)・極楽(ごくらく)という形で説かれている。仏教における輪廻(りんね)という考え方は、単(たん)に死後の世界の有る無しによって論(ろん)じられいるのではない。因果(いんが)の>法則(ほうそく)、業思想(ごうしそう)、死後の世界と縁起(えんぎ)などが複雑に関連(かんれん)ずけられて説かれているのである。

「輪廻の論理」(りんねのろんり)
@因縁果報(いんねんかほう)という因果の論理は仏教の根本思想である。善いことをして幸せな人生を送る事のできた「善因善果」(ぜんいんぜんか)の人、悪いことを数多くしたために不幸な人生を送った「悪因悪果」(あくいんあっか)の人、この両者(りょうしゃ)は因果の論理、業思想、縁起(えんぎ)、さらに>は社会秩序(ちつじょ)や社会の円滑性(えんかつせい)などから考えても当然(とうぜん)であり、必然的(ひつぜんてき)なものである。しかし、善(よ)いことをしても不幸な人生で終わった「善因悪果」(ぜんいんあっか)の人、悪いことを数多くしたにもかゝわらず幸せな人生を送った「悪因善果」(あくいんぜんか」の人がいる。この善因悪果(ぜんいんあくか)、悪因善果(あくいんぜんか)は仏教の根本思想を否定するばかりではなく、理想の破壊(はかい)であり、社会秩序(ちつじを)を乱(みだすことにもなりかねない。この現実的(げんじつてき)矛盾性(むじゅんせい)を解決するためにも我々人間の一生における道徳的(どうとくてき)な行動の総決算(そうけっさん)の場(ば)がなければ困(こま)ることになる。それが死後の世界である。>死後に裁(さば)かれるというのはその意味である。そこでは地位や権力や金など何の役(やく)にもたゝない厳正(げんせい)な裁(さば)きの場(ば)である。死後の世界が社会的要請(しゃかいてきようせい)といわれる由縁(ゆえん)である。
A赤(あか)ちゃんが生まれてくる時、白紙(はくし)の状態であろうか。心身(しんしん)の健康状態や人間としての資質(ししつ)や能力、家庭の円満度(えんまんど)、経済的富裕度(ふゆうど)など、この世に生まれ出る段階で千差万別(せんさばんべつ)である。なぜ差別(さべつ)があるのであろうか。神の意志か宿命(しゅめい)か偶然(ぐうぜん)であろうか。
ブッダはこの三説(さんせつ)を否定し、因縁果報(いんねんかほう)による必然性(ひつぜんせい)と説くのである。すなわち前世(ぜんせ)の因(原因)によって分相応(ぶんそうおう)の生まれ方をすると解釈(かいしゃく)するのである。因果の法則は冷徹(れいてつ)なものであり、そこに感情的(かんじょうてき)な斟酌(しんしゃく)や、いかなる抗議(こうぎ)なども入り込(こ)むことのできない世界である。以上の二つが、輪廻の理論的なバックボ−ンとなっている。
したがって、生まれる時は前世(ぜんせ)の結果・報(むくい)であり、この現世(げんせ)の精進(しょうじん)努力(どりょく)次第(しだい)が因(原因)となって来世(らいせ)が決定づけられ、この三世(さんぜ)が永久に継続(けいぞく)されるというのが輪廻思想の論理(ろんり)である。あえて輪廻のメカニズムといわないのは、輪廻をいかなる方法で証明することも、否定することもできないからである。
「輪廻の概況」(りんねのがいきょう)死後の世界や輪廻を正確に表現することは不可能なことである。こゝでいう「概況」(がいきょう)といっ>ても想像(そうぞう)の域(いき)を出るものではない。しかしそれでは話が進まないのであえて筆(ふで)を加(くわ)えてみたい。生まれ変わる時、人間が人間に生まれ変わるとは限(かぎ)らず、人間以外の動植物(どうしょくぶつ)に生まれ変わる事もある。また、男(女)が男(女)に生まれ変わるとは限らず、女(男)が男(女)に生まれ変わることもある。さらに日本人が日本人に生まれ変わるとは限らず、どこの国の何人(なにじん)に生まれ変わるかも知れないと、しき)と考えられている。阿頼耶識(あらやしき)の「ア−ラヤ」とは貯蔵所(ちょぞうしょ)・蔵(くら)の意味で、身口意(しんくい)の三業(さんごう)の貯蔵所(ちょぞうしょ)であり、眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)・末那識(まなしき)の七識(ななしき)が生(しょう)ずるための根底(こんてい)となり、基盤(きばん)となるのが阿頼耶識(あらやしき)であり、根本識(こんぽんしき)ともいわれる。これが輪廻の本体(ほんたい)と考えられている。いわゆる六道輪廻(ろくどうりんね)の主体である。さらに阿頼耶識(あらやしき)が清(きよ)められたのが「九識」(くしき)の「阿摩羅識」(あまらしき)である。声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)・菩薩(ぼさつ)・仏(ぶつ)の四聖(ししょう)が輪廻しないで解脱(げだつ)するといわれるのはこの九識(くしき)なるが故(ゆえ)なのかも知れない。
  一方(いっぽう)、人口はなぜ増(ふ)えるのかという疑問(ぎもん)が生(しょう)ずる。この点については、地球の生命体(せいめいたい)の数(かず)は決まっているのかもしれない。すなわち絶滅(ぜつめつ)している動植物の分(ぶん)だけ人間が増(ふ)えていると考えられないであろうか。何(いず)れにしても、現実論としては輪廻は信じ難(がた)い。しかしわれわれ仏教徒は、それを信ぜざるを得(え)ないとして信ずるのである。いわゆる難信難解(なんしんなんげ)の世界である。
 死後の世界や輪廻を科学的に証明することはできない。また死後の世界や輪廻を科学的に否定することは更(さら)に困難(こんなん)なことであり、不可能なことでもある。
「輪廻の教えるもの」
@生まれ変わることができれば、死を迎える人に、来世(らいせ)の希望を与(あた)えることができる。
A人間が生まれ変わるとき、人間や動植物のどれに生まれ変わるかも知れない。従(したが)って、他人と思っていても実は前世(ぜせ)では肉親であった可能性もある。そこに人を殺すなという根拠(こんきょ)が生(しょう)ずる。また動植物を慈(いつく)しみ、自然環境を大切に考える根拠(こんきょ)となる。
B男が女に生まれ変わることもある。そこに男女平等の根拠が生ずる。
Cどこの国に生まれるか分(わ)からないということは、戦争の否定と人種差別の否定の根拠となりうる。
D極悪(ごくあく)な殺人鬼(さつじんき)、醜(みにくい)い容姿(ようし)の人など、いかなる人であっても、前世で自分の肉親であった可能性がある。そこに相互扶助(そうごふじょ)と慈悲を分け合って共(とも)に生(い)きなければならない根拠(こんきょ)の一つとなる。このように輪廻は慈悲にもとずく相互扶助と人類愛(じんるいあい)、さらには自然環境や動植物にまで及(およ)ぶ普遍的(ふへんてき)な慈悲の必要性をわれわれに教えているのである。
  また、この慈悲を分け与える善行(ぜんぎょう)によって、個々人(ここじん)の来世(らいせ)の幸福を祈念(きねん)するものでもある。いずれにしても輪廻思想があるために、人類や社会や世界に悪影響を与えることは何もない。輪廻がたとえ空論(くうろん)であったとしても、輪廻思想によって、世界の平和、自然と人類の共存(きょうぞん)、さらには人々の心の安寧(あんねい)が得(え)られるならば、意義(いぎ)あることではなかろうか。